両讃寺のご紹介

住職の紹介

住職ごあいさつ
両讃寺はどこにでもあるような小さな寺です。
しかし、その小さな寺に伝ってきた多くの伝統と儀法を以て
現在の社会に貢献する活動を続けたいと考えています。
社会の問題や社会で働く人々の思いを共にすべく
住職 自ら社会に出て職分を得て課題解決の実践をしております。
「仏教に八万四千の法門あり」と言われているとおり
社会の課題解決も多種多様であります。
仏事や法事も含め、困りごとがありましたらお問合せをください
宿谷真治(しゅくたにしんじ)
京都府京田辺市大住
両讃寺 第29世住職
(京田辺市大住 惠心寺 兼務)
略歴
- 昭和55年生まれ
- 佛教大学卒
- 平成13年に浄土宗総本山知恩院にて伝宗伝戒道場を満行
- 平成17年に浄土宗教師修練道場(大本山 金戒光明寺)を満行
- 平成17年より平成27年まで 京都 大本山にて勤務
- 平成16年に両讃寺住職拝命
- 令和4年に浄土宗総本山知恩院にて璽書伝授道場を満行
両讃寺の成り立ち

正式名称は發迎山 二尊院 両讃寺(はっこうざん にそんいん りょうさんじ)と言います。
宗派は浄土宗(開祖 法然上人)、総本山は知恩院です。
両讃寺のある京田辺市大住(おおすみ)の地は、奈良にある法相宗の本山「興福寺」の荘園で、南山城にあった仏教の一大聖地の一つであったと言われています。
そのため、多くの修行者がこの大住の地におとずれていたと伝えられおり、その名残として大住虚空蔵谷の虚空蔵の滝、月読神社 境内のお寺の蹟など、大住には今でも古くからの信仰の場所や行事が伝えられています。
その昔、この大住の地に「大住家友」という領主が城山に住んでいました。
大住家友は信仰心があつく、この地にあった「阿弥陀堂」と「釈迦堂」を特に篤く信仰していました。
その後、戦国時代の戦いによって「阿弥陀堂」「釈迦堂」共に荒れ果ててしまいました。
そこで「橋本甚太夫」・「刀根源太夫」という地元の郷士が、「阿弥陀堂」「釈迦堂」にいらっしゃった仏様をお祀りする為に新たなお寺を建立しました。
江戸時代に入り、慶長年間に「願故上人」という高僧を住職としておむかえし、發迎山 両讃寺と名付けられるようになったのがこの寺の始まりです。
この両讃寺の特徴は、古来より大住に伝わってきた「阿弥陀堂」の「弥陀三尊(※1)」、「釈迦堂」の「釈迦三尊(※2)」の両方をお祀りし、阿弥陀如来・釈迦如来の両方の教えを伝える寺であります。その特徴は寺の名前にもあらわれています。
- ※1 弥陀三尊とは「阿弥陀如来(あみだにょらい)」を中心に、向かって右に「観音菩薩(かんのんぼさつ)」、左に「勢至菩薩(せいしぼさつ)」をおまつりすることを言います。
- ※2 釈迦三尊とは「釈迦如来(しゃかにょらい)」を中心に、向かって右に「文殊菩薩(もんじゅぼさつ)」、左に「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」をおまつりすることを言います。

- 山号
- 發迎山はっこうざん
- 院号
- 二尊院にそんいん
- 寺名
- 両讃寺りょうさんじ
寺名の由来
両讃寺は、名前の通り、「両方を讃える寺」という意味を持ちます。
では、両方を讃えるとはどういうことでしょうか?
両方とは「阿弥陀様 と 釈迦様 の両方」という意味です。
つまり、阿弥陀様の教え・お釈迦様の教えの両方を讃えるお寺であるということです。
そのような由来を持つ寺は全国的にも珍しく、同じ由来のお寺としては京都嵐山の二尊院が有名です。
仏教には阿弥陀様の浄土信仰に説かれる「自身の無知を自覚して信仰を深めていく教え」と、
お釈迦様が実践として説かれた「自身の可能性を求め、理解と修行を深めていく教え」と、
それぞれの立場に応じて教えや修行の内容が説かれています。
どちらの教えが良いかは、人それぞれの環境や考え方に左右されることが多いかと思いますが、仏教では中道(かたよらない)の教えを説くように、どちらか一方の教えだけに固執することなく、その時の自分の状態に応じて実践を積み上げていくことが良いこともあります。
そのことが、「両方を讃える寺」という両讃寺の寺名に表されています。
山号の意味
両讃寺には寺の名前の他に、山号(さんごう)・院号(いんごう)という別の名前があります。
両讃寺の山号は「發迎山(はっこうざん)」と言います。
「發」は「発」の旧字体で、「発遣(はっけん)」という言葉を意味します。
「発遣」とは、この現世から極楽浄土へ送り出すことを言い、お釈迦様が「生死輪廻(りんね)の業から抜け出る為には、お阿弥陀如来の極楽浄土へ行くこと」を強く勧められたことに由来します。
「迎」は「来迎引接(らいこういんじょう)」から取られました。
「来迎」は阿弥陀如来が「私たちが臨終のときに、極楽浄土からお迎えに来てくださる」働きを表します。
つまり、お釈迦様の働きである「発遣」と、阿弥陀如来の働きである「来迎」の両方から1文字ずつを取って「發迎山」という山号が付けられました。
院号の意味
両讃寺は本堂に「阿弥陀如来」と「お釈迦様」を迎え合わせにお祀りしています。
その「阿弥陀如来」と「釈迦如来」のお二人のことを、浄土宗では「二尊」と言います。
この「二尊」をお祀りする寺ということから、両讃寺には「二尊院」という院号が付けられました。
仏教ではよく「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」という言葉を耳にしますが、
この「南無阿弥陀仏」と唱えることを「お念仏」と言います。
「お念仏」の教えはどこから発生したのかと言えば、「お釈迦様が阿弥陀如来という仏の存在とご利益を強く勧められた」ことから始まります。
この二尊(お釈迦様と阿弥陀如来)の働きが お互いにに作用しているからこそ、長きにわたりお念仏が絶えずに伝承されているのです。
八小路の由来
京田辺市大住に「西八」という地区がありますが、これは「西村」という地区と「八小路(はっこうじ)」という地名が合併してつけられた名前です。
「西八区」の南側は昔から「八小路」という地名で親しまれ、両讃寺の近所に「八小路」というバス停があることから、今でもその名残りがあります。
『大住村史』(西田直二郎)には、
「‥發迎山両讃寺と号したと、里人これに誤って發迎寺といい、さらに八小路と書くに至った、と。土地の地名八小路の起源はもとより口碑に過ぎないが、古地図には八講寺の名がみえる」(※口碑=言い伝え、伝承)と記されています。
また両讃寺二十三世 金田和尚の残された由緒には次のような内容が書かれています。
「当時(江戸時代)の人々は寺を呼ぶのに山号に寺をつけて呼ぶものと勘違いし、發迎寺と呼ぶようになった。發迎寺だと画数が多いため、略して八小寺と書く人が現れた。その後、寺は両讃寺と言うようになり、八小寺から八小路に変わり呼称は地名となって残った。」
京都の浄土宗総本山「知恩院」も「華頂山 知恩教院 大谷寺」という名称ですが、「知恩院さん」と親しまれています。その他に「教王護国寺」を「東寺」、「禅林寺」を「永観堂」と呼ぶように、親しまれた通称が定着し地名になると言ったことは珍しくありません。
両讃寺の見どころ


十一面観音菩薩の石像と
美男美女のご利益
両讃寺の境内にいらっしゃる石仏の十一面観音様は、お参りすると美男美女で賢い子が育つと言われております。
昔から身重(妊娠中)の人や子供がいらっしゃる方が御参りすると御利益があると言われており、ご懐妊の婦人や小さな子供がいらっしゃる夫婦が、遠方からよくお参りに来られたと伝わっています。
現在でも、子供がお参りすると男の子は美男に女の子は美女に、共に徳のある大人に成長すると言われ、多くのお参りがあります。

月読神社の薬師如来と
芸能
両讃寺 本堂の中、右奥にいらっしゃる薬師如来は、もとは大住地域の氏神である月読神社の社寺である養福寺でお祀りしていたご本尊様で、明治時代に養福寺が無くなってしまった際、両讃寺でおまつりし供養することとなりました。
もともと月読神社境内で薬師如来を安置していた養福寺という寺は、その山号が宝生山と言われており、一説によると お能 の「宝生流」の名前の由来とも言われています。
月読神社では、現在でも「隼人舞い(はやとまい)」と言われる芸能が伝承され、毎年10月14日に奉納されています。
古来、大住の地にする人々は「大住隼人(はやと)」と言われ、奈良時代より朝廷を軍事的に守護する役目を負ってきました。
その隼人達は猿楽を舞うことができたため、戦いがない時は宮廷行事にて舞いを披露したと言われています。この舞いが現在でも「隼人舞い」として受け継がれており、「隼人舞い」は 「能」などをはじめとする日本の芸能の原点であったとも言われています。
隼人舞い」には、朝廷を讃える舞いと、朝敵を呪詛する舞いとがあったと伝わっております。
その舞いの奉納を古くから受けてきた薬師如来は、平安時代 初期の仏様です。
当時、平安時代の仏教では「国家守護」のご利益のある薬師如来を各地に配置し、国の安泰を願ったと言われています。
両讃寺の薬師如来は、その時代に当時のご神木で一刀彫された仏様で、京都 朱雀大路をまっすぐ南方に進んだ先、甘南備山から北に数キロにある、この大住の場所に配置されていました。
京都の南に位置し「隼人舞い」の奉納を受けてきたこと、京都の北西に位置する神護寺のご本尊の薬師如来と作りに共通点があることから、何かしらの国家守護の役を担っていたとも言われております。